ホーム > みなとの話
当時の様子をよく知る方々にお話を伺いました。
エリアを選んでいただくと、そのエリアの情報をご覧いただけます。
第9代西桜島村長である久米芳季氏の尽力により、大正15年8月23日に「桜島青果卸市場」として誕生しました。 これにより、桜島で生産される大根やスイカ、ミカンなどが直接販売することができるようになりました。
桜島行きの桟橋は浮桟橋があったのと階段状の港になっていて、潮の満ち干に対応していた。
個人で船を持っている人がいて、「五郎丸」とか「アカオ丸」とかいう名前で30艘くらいがきていた。
桜島は稲がないので藁を買い、また、屎尿を持って帰ったりしていた。屎尿は、今一本釣をする人たちがいるタンクがあるあたりに肥溜めがあり、
そこから汲んで持って帰っていた。
桜島のフェリーが走り出したのは、昭和30年くらい。バスが2台乗るのがせいいっぱいで、バスもはみ出していた。
桜島フェリーも木造船の時代は、車は予約をしなければ乗ることができずに、しかも横付けしたかたちで、 乗せていたから、見ていてハラハラするくらいに危なかった。昭和30年代、フェリーのことは渡船と呼んでいた。 オート三輪で渡船に乗った。しかし4台くらいしか乗らなかったので、予約しないと乗れなかった。
桜島フェリーも最初は木造船で、横から車を乗せていた。5〜6台乗せればそれでいっぱいだった。 幅はオート三輪が乗っていっぱいくらい。フェリーターミナルは小屋みたいなもので、切符売り場があるくらいだった。 渡る時間も相当かかった。出身の田舎が山だったので、船に乗るのはとても怖く、泳げないから沈んだら困るとばかり考えていた。
桜島桟橋も昭和33年ごろまでは浮き桟橋だった。奄美大島からの船も浮き桟橋に到着していて、桟橋が揺れて酔うほどだった。 桜島桟橋に建物ができたときには、あたりの人たちは建物に上がって、初日の出を拝んだりしていた。
滑川は幅が10mくらいで、十文字の交差点のところに橋があった。滑川の上にも、屋台がずらりと並んでいた。 鰻がいて子供たちが獲るものであった。ミミズをつないでとったり、ウンツキという道具で、腹をさしたりして獲っていた。
堀は岩崎谷荘まで続いていて、小船があがっていっていた。 昭和のはじめはそのあたりに牛小屋(牧場)があり、お金持ちは牛乳を買いにいっていたそうだ。 ガラス工場もあったが、それは病院の薬などを入れるためにつくっていた。
竪馬場の商店街はすごかった。八百屋、肉屋、金物屋のほか、魚屋あり、酒屋あり、散髪屋もあり、なんでもあった。 東映の映画館もあった。映画館といえば、山形屋の一階は昔映画館だった。映画館は上本町と易居町にもあった。 鹿児島で最初にできた映画館は、騎射場の野村洋裁学校のところにあった映画館と記憶している。
銭湯は多かった。滑川温泉、かごっま温泉のほか、エビス湯があり、車町にもあった。 一般の人は入れなかったが、昭和温泉というのもあった。
易居町の賑わいはすごかった。汽車の到着の時間に合わせて、六時前から大変な人だった。 担ぎ屋さんが唐草模様の大きな風呂敷包みを担ぎ、走って行きかう人もいた。たくさんの荷物の人には、お店の人が自転車を押していって、 バスや汽車に乗るところまで持っていってあげたりしていた。問屋もあったし、小売もあった。
易居町や小川町の海岸部分を、新地といった。大島などから薪などを運んできて、 ものすごい量のものが積み上げてあり、とても賑わっていた。
銭湯は多かった。滑川温泉、かごっま温泉のほか、エビス湯があり、車町にもあった。 一般の人は入れなかったが、昭和温泉というのもあった。
3等の待合室は、木の椅子でバンコみたいなもの。一等は、ソファーで、糊のぴしっときいた白い布が掛けられていて、
扇風機もあった。鹿児島には進駐軍がいたからか、一等があった。
西駅は武駅という名で、鹿児島駅は「かん駅」と呼んでいた。上町(かんまち)からきているか、本駅だということで、官(かん)駅だったのかはわからない。
桜島の袴腰にはアジを釣るところがあった。大きな針を渡されたが、その先にテグスで小さな針をつけて釣っていた。 大きな針のままでは釣れなかったから。
昭和38年頃、友達と桜島を自転車で一周した。 今のように道路もよくなく、砂埃がして、大変で途中で車に乗せてもらおうかと何度も思ったほどだった。 途中、牛根でハマチを釣った。釣ったらおじさんがハマチの頭をパンっと叩いてくれた。 その頃はその釣堀がものすごくはやっていた。現在牛根大橋が架かった下のあたりにあった。
江戸時代、この掘にうつる桜島が美しかったことから、この名前がついたといわれています。 掘の周辺には、喜入・垂水屋敷や藩の米倉などが並んでいました。戦後に都市計画の一環として少しずつ埋め立てられ、 現在は面影を追うことは困難となっています。
桜島行きの桟橋は浮桟橋があったのと階段状の港になっていて、潮の満ち干に対応していた。
昔は今よりも海が近くて、名山のあたりには掘があり、その上に人が住んだり、店があったりした。 今でも店舗の一部では、建物のコンクリートをはがすと、その堀につながる階段がでてきたりする。 また堀はそんなに衛生的ではなく、きれいではなかった。また当時のこのあたりのにぎわいは、すごくて店も今よりもたくさんあった。 堀が埋め立てられて、街並みも少しつつ変わってきた。
名山堀にはカニや魚がいて、それを採るひともいた。
中学生の頃になると名山堀のあたりの桟橋で、1時間いくらで伝馬船を借り、友達といっしょにビナを採りにいっていた。
港周辺には、おきながしといってだんべ船などで働く人たちが住んでいた。 また旅館も多く、近所には荷馬車の馬蹄直しなどをする所もあった。戦後はとにかく馬が多かった。 その馬の糞を拾って歩いて、肥料にしていた。また港は浮き桟橋で、また階段式の防波堤になっていた。 名山堀には、お盆の季節になるとしょうろう船が浮かべられていた。
名山市場は、とても乾物屋が多かった。またお米やお茶などを売る店もあり、ここでなんでも手に入っていた。 八坂神社もあって、そのとなりには明石屋があった。また、かつぎ屋さんたちも来て、田舎のものを売りに来て、田舎にこっちのものを売りに帰っていった。
堀があった当時のこのあたりのにぎわいはすごく、店も今よりもたくさんあった。堀が埋め立てられて、街並みも少しつつ変わってきた。
現在信用金庫がある場所は砂地になっていて、その向こうはガラクタや大きな石が出てくる埋立地だった。 ソフトプラザの場所を掘ると墓石がたくさんでてきた。産業会館の場所には材木屋があった。
名山市場には、肉屋や魚屋、そして野菜屋など、とにかくなんでもあって、便利だった。
昔はこのあたりは、復員してきたひとや沖縄出身の方々がたくさん旅館を求めて来るような地域だった。
港には貨物の引込み線があって、汽車が走っていた。貨物には、大きいものや小さいものなど様々にあって、荷物の同時にたくさん港に集まっていた。
私は船に弱いから、港に着いた荷物のにおいだけで、酔っていた。
昭和33年ごろは車も少なくて、道路を横断するのには、怖くなかった。また道路には馬車や人力車も走っていた。
現在の帝国倉庫の場所には米用の倉庫があって、周辺にはねずみがたくさんいた。
倉庫は木製のものだったから、ねずみが間から入ったりしていた。同時にそれを捕獲するための猫もたくさんいた。
市役所の新館のところには消防署があって、そこには六月灯がおこなわれるような地蔵があった。
産業会館のところには八坂神社があって、祇園祭りの行列もここから出ていた。
港周辺には、ちいさな旅館がたくさんあって、林芙美子さんが「浮き雲」の取材のために訪れた際に宿泊したのは、 栄屋旅館だった。ここは日観連指定の宿だった。
鹿児島と垂水を結ぶ本格的な船の運航が始まったのは、大正10年のことでした。 その後、船は少しずつ設備を充実させたものになりましたが、昭和19年2月6日に垂水港において転覆事故が発生し、 500名ほどに犠牲者を出しました。戦後になると、自動車の急激な増加に対応するように、昭和49年に桟橋を鴨池に移し、 約1000トンの船が就航するようになりました。
垂水行きのフェリーはボサドに着いていて、通りにはお土産屋も並んでいた。 ターミナルの中にもお土産屋があった。垂水フェリーが鴨池に移行してからも一時期は、車は鴨池から、人はボサドからの状態が続いていた。 そのころのダイヤは、2時間に一本だった。
垂水から鹿児島市側に通っていた。昭和40年ごろは、垂水まで一時間はかかった。 垂水の人は、港に着くと、まちまで歩いて行っていた。帰りに「ほうらくまんじゅう」を買って帰るのが楽しみだった。 桟橋は浮き桟橋で、女性にはなんとなく怖かった。
ボサド桟橋は、浮き桟橋で、垂水航路が来ていた。 もうすこし名山堀寄りのところに、種子島・屋久島航路が到着していた。屋久島行きの照国丸は大きかったのを覚えている。 船はみんな横づけにしていた。
浮き桟橋は5M×20Mくらいはあった。大きな船が来ればゆれるが普段は安定している。 表面は道路のようにアスファルト(コールタール)で固めてあった。浮き桟橋はボサドと、海上保安部のがあっただけ。
仕事で奄美大島に行くときに、船に乗っていった。昭和30年代後半から昭和40年代前半のこと。
今の桜島フェリーより小さかったかもしれず300tくらいだったか。船の名前は、みゆき丸、こうなん、たかちほ、やさか丸 などだった。
夕方出て、あくる朝の9時か10時くらいに名瀬に着いていた。みゆき丸では一番安い切符を買い、
そこでは油がくさいので、二つくらい上の特2などにお客さんがいなければ、
ボーイさんに銭(チップ)をちょっと渡して、いいところに乗せてもらっていた。揺れが全然違った。
私が覚えている当時、船は全部ボサドに着いていた。奄美からの就職船のボサドに集まっていた。 大島航路には、高千穂丸や照国丸、波乃上丸などが停まっていて、荷物の陸揚げなどに、クレーンが活躍していた。 その発動機の音と引込み線の遮断機の音が、港に響いていた。私は沖縄航路を眺めていると、なぜかわくわくしていた。
屋久島行きは横脇にあった。折田丸(その頃は第20折田丸か)が出ていた。
後からは屋久島丸という名前の船だった。種子島行きは別で、種子島は九州商船の扱いだった。
大島航路はその北にあった。浮き桟橋でなく横付けしていた。大島航路の売店は2階建てで大きかった。下は荷捌き所になっていた。
桟橋は南から順に、垂水・屋久島、種子島、奄美大島、沖縄、桜島桟橋。税関(鉄道の向こう側)の下が沖縄航路だった。
ボサド桟橋にはターミナルのようなものがあった。 主に客用で、荷物も取り扱った。鹿屋の人が急ぐときに、南海郵船に頼めばその日のうちに届いていたので、頼んでいた。
鹿児島と垂水を結んでいたのが、ボサド桟橋から出る船。南海郵船は垂水フェリーの前身。
最後あたりに就航していたのは、あかね丸、にしき丸、第十垂水丸などの名前の船だった。(垂水航路)
建物は平屋でトイレはあった。広さは50坪くらい。
中には、待合所と、南海郵船、折田汽船種子屋久、横付けの桟橋)の切符を売るところがあった。
タバコ屋、売店、果物屋兼一時預かり所(チッキ)があった。
タバコはハイライトが70円の時代に、タバコだけで1日に1万5千円くらいずつ売れていた。
売店では、雑誌、牛乳、パンなどを扱っていた。みやげも少し置いていたようだ。船の中ではなにも買えない時代だった。
折田汽船も就航していたので、もあったので、屋久島にいく人たちがカルカンなどを買っていた。垂水航路の人は牛乳やパンを買っていた。
石蔵付近の歩道のあたりにお店が出ていた。現在の倉庫と歩道の間の2mないくらいの敷地の部分に、
入り口はあけ広げたような感じでつくってあった。うどん屋、一杯飲み屋、果物屋など。
現在プートンマカオの手前の斜めに走っている筋のあたりまで、4〜5軒あったようだ。
石蔵は減った。現在の社会保険事務所の隣あたりにも大きなものがあった。現在のトランクルームの場所にもあった。
石蔵の横脇にもうどん屋があったような気がする。
待合所の外のお土産屋には、みかんやパイナップル、さとうきび、かつお節、そしてバナナが並んでいた。 岸壁には、うどんを食べるところなどがあった。
港には赤灯台と白灯台があって、赤灯台が釣りの場所だった。 アメン、ゴッババ、キスやタコが釣れていた。魚を釣るときのゴカイなどは、洲崎海岸に採りに行っていた。
港通りには、三輪用の人力車がオリンピックの前までは走っていた。 しかも県道の両側は、ほとんどが石蔵だった。港の通りには、藁がよく落ちていたが、これは馬車が往来していたから。 臨海線沿いの道路は、うろこ状の道路だった。石かコンクリートのようなものを敷き詰めたような道路だった。
港の通りには、肥しや肥溜めを積んだリヤカーが走り、港には鹿児島市内から桜島に向けて、船でどんどん大根づくり のためなどに、船が出て行った。
小さい頃、トラック運送がないときは、荷馬車が行き交い、馬糞がたくさん落ちていた。
荷馬車は幅が2mないくらいのトラックの二台のようなものにタイヤがついており、それを馬が曳いていた。
人は乗らずに馬をおじさんたちがひっぱっていた。鉄筋を載せたり、藁を積んだりしていた。
馬車の集まるところは、協働海運(?)のあたりだった。線路の海側にあった。倉庫の横脇などに馬車は停まっていた。
臨港線より海側より、倉庫側にもあったような気がする。臨海線の外側にも倉庫のようなものはあった。市場側には荷捌き場があった。木造の高い建物だった。
引込み線は昭和50年ごろまでは列車が走っていた。 遮断機は自動ではなく、往来の多い場所には、誘導をする人もいた。 魚市場のあたりが、引込み線の終点だった。
引き込み線は道路に隣接していた。今も当時からの家(洲崎団地の手前)が残っているが、
その家の2、3m横を臨海線が走っていた。線路の跡は今も残っている。単線だった。
市場と魚類市場のものを鹿児島駅に運んでいた。大島航路のものも貨車が停まり積み下ろししていた。
種子屋久に荷物を降ろすほうが多かったような印象がある。
線路は少し高いところを走っていた。道路より30センチくらい高かった。
引きこみ線は、平成元年の頃まではあったが、その頃は使っていなかった。 汽車が通るたびに、遮断機が降りていた。 馬車も行き交う時代もあったが、その馬車は下荒田あたりまではウロウロしていた。
野菜市場と魚市場は分かれていた。表は漁連で船が入ってきていた。 南側が野菜だったが、中央市場にも桜島から船が来ていた。桜島の人たちがミカンやビワを運んできていた。2階建ての建物が並んでいた。
大門口には荒物、はきもの、ロープなどを売る問屋や店がたくさんあったが、谷山の埋め立てが始まると、ほとんどが移っていった。
以前は大門口のほうが狭く、広馬場通りが広かった。
清滝川はちょっと怖いところだった。バタグラが並び、現在のエルグ(当時は日本ガス工場)から先はいくなという感じだった。
行くにしても道路らしい道路はなく、今の225線をまっすぐ行くしか方法がなかった。
日本ガスの工場では、鹿児島の都市ガスを全部作っていた。石炭が山積みしてあって、臭いがすごかった。
須崎海岸で泳いだこともある。ガスタンクの前あたり。潮干狩りができていた。きれいではなかったが、清滝川の河口あたりは砂があった。
後にこのあたりはごみ捨て場になって、ゴカイを掘りにいったら、猫や犬の死骸がいっぱい流れてきていた。
汚水処理場ができる前、錦江町のあたりが海だった頃のこと。清滝川の向こう側がゴミ捨て場だったろうか。
遊ぶところは方々だった。遊び場は、道路や、筋。車も少なく危なくもなかった。 倉庫がぎっしり立ち並んでいて、倉庫の間、家と家の間を抜けて遊んでいた。
昭和29年、日本でも珍しい、4階建ての店舗付住宅ができた。
一階が店舗で、2階から上にそこで商う人たちが暮らしていた。現在の建物で、段差になっているところから北側の敷地が当時の建物があったところにあたる。
南側は鉄工所や駐車場で、いろいろな人が住んでいた。
店舗は46店舗。そのころは何でも揃うところで有名だった。お客さんが多くて、スリが出るくらいだった。
それぞれの広さはそんなに広くなく、通路は、いの字型にずっとあった。真ん中の通路は一本で入り口は何箇所もあった。
鉄工所側は大きな広場になっていて、どこからでも入れるようになっていた。
店の広さに余裕があるところは、店の中でも煮炊きをして、ごはんなどを食べていた。
魚屋が一番多くて3軒、野菜屋が2軒、靴を製造するところもあった。 食料品、金物、薬局、衣料品。ヤキトリ屋さんがあって、はやっていた。 酒屋、駄菓子屋、肉屋、味噌屋、化粧品屋、食用油屋、とうふ屋、麺屋、額縁屋、食堂、お菓子や、下駄屋など。 ビルに入っていた魚屋さんたちは、中央市場に仕入れに行っていた。昭和42、3年の頃。魚市場のほうが先に移転し、 そのときに市場から魚屋さんが一軒も無くなった。
ビルの建物の間取りに風呂はなく、炊事場に6畳と3畳。四角に部屋だった。 洗濯場が2階の一角に2箇所あった。広くて、蛇口が10くらいあった。世帯は45世帯程度。 廊下の端っこ、階段の横にゴミ捨てのシュートがあり、一階部分にたまるしくみになっていた。 毎朝捨てていたが、生ごみはそんなに多くなかったようだ。市の大八車のような収集車が持っていってくれていた。 炊事をするのには、都市ガスがきていた。 新しいビルになったのは、南側(一号館)が平成5年、北側(二号館)が平成7年。 今は、60世帯ずつの120世帯になった。
現在もある周辺のお店では、こんにゃく屋は古い。 豆腐屋、たんこ屋、本屋もあった。鉄工所はずっとあった。鉄鋼はせず、駐車場をしていた。
横山湯。樋之口に大きな銭湯があった。南湯。大門口にあったのは船津湯。ほうせんかく。薩摩湯。
南林寺のあたりは千丘山といって小高い砂の山があったが、それをトロッコでならして、 現在のパース通りを造った。パース通りができる前は、パース通りの全部と松原小学校の三分の一くらいは、 南林寺公園という公園だった。空襲のときは、南林寺公園の防空壕に逃げたという記録もある
松原小学校は昭和27年にできた。松原小の敷地は、墓地を片付けてあまり何もない感じのところだった。 角は南座という劇場で、付近に何軒かは家があった。戦争で焼けた後、新校舎ができる7年間は誰もすんでいないふうだった。 松原小の子は、須崎小(城南小)に行き、2年ばかり仮に一緒に勉強をしたことがある。須崎小学校は昭和6年から昭和14年。 松原小学校は元々は現在の天文館公園の場所にあって、戦災ですべて焼けてしまった。
飲み屋はビルの中にはその頃はなかった。飲みにいこうとなったら、市場を利用くれるところ、 例えばいっぴんこう(中華)、内田荘、菊屋、大門口の平野などに行った。平野は広い料亭だった。 40年代まではあった。他の料亭は既に辞めていたようだ。 沖の村があったのは昭和33年まで。沖の村の人も市場のお得意さんだった。正月は鍋をよく買ってくれていた。 店の名前は南海荘、東海楼、しののめ、なるとなど。
沖の村の真ん中の左側にビリヤード屋があった。
天保山は、海水浴などで出掛ける場所で、与次郎ヶ浜は、塩つくりを戦後すぐくらいまでおこなっていた。
荒田川の河口付近が、海岸になっていて、その先のほうには船溜まりがあった。 砂浜は、そんなに広いものではなかった。戦後すぐのころは、鹿児島放送局の建物と住宅が少しあるくらいだった。 鹿児島商業高校も天保山にあった。
旧天保山橋には、今よりもまだまだたくさんの松林が並んでいた。 また天保山の周辺の山も今よりもこんもりとしていて、本当に山という雰囲気だった。 松方公園も今よりも広かった。
甲突川は、今よりも深くて、子どもたちは、みんな土手から飛び込んでいた。深いところでは2メートルくらいはあった。
下荒田には、軍神といわれた横山少佐の家があり、戦後の一時期までは、訪れる人もいた。 命日にあたる12月8日には、たくさんのひとで賑わった。下荒田の郵便局の前は、昔から広がっている。 どうしてあのようになったかはわからないが、野球をしたりしていた。 また旧街道にはバスも通っていた。荒田には電車が走っていた。今の通りの線路は、専用軌道だった。 土手になっていて、武之橋から動物園までは土手で、動物園は二階建てになっていた。